まんまるが居間に佇む

日々のへんてこ事件・のほほん時間の覚え書き。

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脳死は人の死か?

 卒論の担当教官だった我が師匠は、 
脳死は人の死であるから推進すべきであり、 
逆に生体肝移植は禁止すべきだと主張する人だった。 

ちなみに当時、担当教官を選ぶ権利は、私にはほぼなかった。 
卒論のテーマである医事法の専門家が、学内に他にいなかったからだ。 
担当教官が彼に決まった時、私は少し落胆した。 

私は、脳死は人の死だと線引きできない。 

実は師匠になって頂く前に、彼の講義を受けたことがあった。 
彼は脳死についての講義を行い、脳死についてのレポートを課した。 
彼は講義中に、実に楽天的な口調でこう言った。 

「ドナーカードを持っていれば、不慮の事故に遭った時も、 
優先的に救助してもらえるから、妻にもカードを持つよう勧めたんだ」 
「脳死による臓器移植は、命のバトンをつなぐことだ」 

脳死が、本当に完全に人の死であるなら、彼の主張は正しいのだろう。 
しかし、その脳が、いかにしても少しも機能を取り戻さないなどと、 
誰が本当の意味で言い切れるのだろうか? 
脳に受傷したその人が、生き長らえる可能性がゼロだと、 
誰が保証できるのだろうか。 

脳死判定の方法をご存知だろうか。 
当然ながら、脳波の測定など様々な項目があるが、 
中には「耳に水を入れて反応を見る」などというのもある。 
要するに「生きているかどうか」ではなく、 
死んでいるかどうかを確認しているのである。 
脳死判定の前提は、あくまで「死」なのだ。 
判定開始の時期、判定方法、その回数。 
そのどれについても、 
確実に脳死を判定できると言い切れるのか、甚だ疑問だ。 
この判定で、果たして真に死んでいない人を、
見分けることはできるのか? 

国内における、これまでの脳死による臓器移植例のうち、 
実は脳死ではなかったのではないかと疑われる例が、いくつかある。 

更には、 
「脳死者=死者」という前提の元に臓器移植を行うのにもかかわらず、 
麻酔をかけて移植を行った例もある。 

これ以上詳しく書くのはしんどいので割愛するが、 
要するに、現在の「脳死」というのは、 
「大体死んでいる」という状態に他ならないのではないだろうか。 
「多分」命が助からない、という状態。 

確かに、脳死を疑われる大半が、本当に死んでしまうのだろう。 
しかし、その脳死らしい人が確実に死ぬという保証は、 
誰にも出来ないのではないか。 
人間の生命力のすべてを、私達は把握しているのだろうか。 
特に、若年の者であれば、 
その生命力は、これまでの医療の経験を軽々と超える場合があるのだ。 

例えば、心肺蘇生後6時間も脳波がなかったのに、 
48時間後に脳波が復活した人は、
脳死判定基準から言えば脳死者である。 
この人は運良く退院までこぎ着けたが、 
このような人を臓器移植で「殺して」しまうことが、 
本当に起こり得ないと言い切れるのだろうか。 

確かに、臓器移植はレシピエントにとって、 
その人の命をつなぐための、夢の医療だ。 
臓器移植そのものは、否定するものではない。 
それにより一人でも多くの人が健康を取り戻せるのは素晴らしい。 

しかし臓器移植には、必ずドナーが存在するのである。 
ドナーから提供された臓器は、ドナーの命そのものなのだ。 
臓器移植が法律的に取り上げられ、世間の話題になる時、 
あまりにもドナーの命が無視されている気がしてならない。 
「もう死んじゃってる人のことだから」として、 
はなからスルーされているような気がしてならない。 

その脳死者、ほんとに死者ですか? 
その臓器、モノではありません。 

臓器移植を云々するなら、 
まず脳死判定基準の見直しからやるのが筋ではないか。 
人は、人の命のすべてを解明した訳ではないのだ。 
ならば、生者を誤って死者にしないために、 せめて、
もっともっと万全を期した脳死判定基準を作り直すべきではないか。 

私自身は、 
どこをどうやっても生き返らないほどの死者になってしまった時には、 
必要とされる方に己の臓器を差し上げても、原則的には構わない。 

しかし、まだ生きているのに殺されるのはごめんだ。 
だから、臓器移植のすべてを拒否するドナーカードを持っている。 
脳死判定基準の見直しが行われたら、また考え直すのだ。 


<後日談> 
 我が師匠に教えを請ううち、 
彼が性善説に生きている人間だということが分かった。 
彼の脳死に関する考えが、性善説を元に構築されたのだと分かれば、 
それに賛同はしないが、理解はできた。 
 しかし、不肖の弟子は性善説を受け入れることは出来ないのである。
 
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この記事に対するコメント

こんにちは(^・^)ご無沙汰しておりましたm(__)m

脳死...難しいですよね(-_-;)
それがもし最愛の人ならば受け入れられるでしょうか?
私には多分無理ですね....
奇跡が起こる事もありえるんですから。
人の生命力はどんなに医学が進んでもわからないかもしれないですね。
海風 | 2009/07/16 5:04 PM
海風さん、いらっしゃい♪
こちらこそ、ご無沙汰しておりました。失礼しました。
思い出していただけて、とってもうれしいです♪

私も、海風さんの意見と全く同じです。
奇跡が起こるのが、命なのだと思います。
何といっても、人間の脳のことで分かっていることなど、
まだまだ、ほんの一握りなんですから。
ちゃあ | 2009/07/16 6:28 PM
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