まんまるが居間に佇む

日々のへんてこ事件・のほほん時間の覚え書き。

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裁判 in 裁判 考察

 初めての裁判員裁判が終わった。 

裁判員裁判が導入されたのは、 
「市民感覚を司法の場に採り入れる」ためといわれる。 
では、今回の裁判員裁判に、 
所謂「市民感覚」なるものは反映されたのだろうか。 

国民の中から選ばれた裁判員たちが、 
初めての重圧から解放されて口にした言葉から考えてみる。 
記者会見の中で裁判員たちは、このようなことを言った。 

 ・(私たち一般市民が)普段会えないような裁判官に会え、 
   気さくにこちらの質問に答えてくれた。 
  (休み時間は)和気あいあいと過ごすことが出来た。 

 ・量刑については、予め裁判官より過去の判例から抽出したものを 
  レジュメで見せてもらっていた。 

彼らの言葉を聞いていて、私が感じたのは以下の2点。 

 1.裁判官や裁判所の雰囲気に呑まれている。 
 2.量刑にはある程度の司法によるリードがある。 

私は、上記の2点を非難している訳ではない。 
どちらも当然のことだからだ。 

1については、初めて裁判所に足を踏み入れる裁判員もいただろうし、 
裁判官なんて普通は身近にいない。 
自分たちの決断が、被告人という人の人生を左右すると考えれば、 
緊張や萎縮の心持ちになるのは当たり前だ。 
そうした中で、裁判の雰囲気に呑まれてしまうのは当然だろう。 

2については、裁判員が被告人や被告人が起こした事件に対し、 
どのような理解をしたとしても、 
ただ闇雲に量刑を決める訳にはいかないのだから、 
ある程度の量刑の目安を必要とするのは当然だ。 

ただ、1と2の状態が揃ってしまうと、司法にとっては、 
さぞ「市民感覚」を「法曹感覚」に近付けやすいことだろう、 
と穿った見方をしたくなるのもまた人情ではないか。 

自分が今回の裁判員になったと考えてみる。 
右も左も分からない裁判の流れの中で、 
とりあえずの量刑の目安である過去の判例(の要約)を読み、 
初めての証拠調べに参加する。
殺人という行為の結果が写る写真を見る。 
(そして、頻繁に行われる裁判官との打ち合わせでは、 
裁判内での「裁判員が行うべき質問」も打ち合わせられるだろう)  

報道は「裁判員の何人が質問した」だの
「証拠写真から目を背けた」だのと、 
実に下らない、報道とは名ばかりの、 
野次馬根性丸出しの視線で集めた情報をわんさかと垂れ流す。 

裁判員裁判の中での裁判員たちは、こんな状態の中で、 
あっと言う間に過ぎていく時間の勢いに、 
ただ翻弄される数日間だったのではないだろうか。 

私は、この裁判員裁判なるものは、遅かれ早かれ、 
自然消滅に近い形で無くなると思っている。 
理由は一つ。 
労多くして功少なし、だからである。 

そもそも、裁判員裁判はなぜ導入されたのか。 
判決、いや量刑が「軽すぎる」と感じる「市民感覚」と、 
従来からの蓄積である判例の量刑を基準にする「法曹感覚」とが、 
あまりに乖離しているため、 
両者を摺り合わせようと考えられたからではないか。 
平たくいえば、「もっと重い刑を」と求める国民を、 
手っ取り早く納得させるための口実が、 
この裁判員裁判制度なのではないだろうか。 

その点から言えば今回の裁判員裁判は、 
目的を達しているといえるように見える。 
今回の量刑に関しても、 
従来の判例から見れば重い刑になっている。 
従来であれば、懲役10年くらいじゃないかともいわれる。 

でも、考えてみて欲しい。 

日頃、どんなに刑事裁判のニュースに接して 
「こんな量刑じゃ軽すぎる!俺なら死刑にするね!!」などと、 
声高らかにしゃべっている一般市民だって、 
いざ裁判員になって「生の」裁判官や「本物の」裁判や裁判所に接して、 
果たして普段通りの感覚をその場に持ち込めるかどうか。 
裁判官が示した量刑の目安に対し、 
「プロがそう言うならそんなものだろう」と思ってしまうのではないか。 
その上で、どれだけ「市民感覚」を裁判内で発信できるものかどうか。 

そして、
そんな “なけなしの” 市民感覚を発信してもらうための裁判員を 
国民の中から選ぶのに、どれだけの手間と費用と時間がかかるのか。 
裁判官や検察、弁護士など、裁判に関わる法曹が、 
一般市民にも分かるような裁判を行うのにも、 
それ相応の努力と手間が必要である。 
まさに「労多くして功少なし」なのである。 

それより何より、 
我々国民の代表たる裁判員が刑事裁判に参加できるのは、 
「第一審」だけと限定されているのだ。 
控訴審・上告審には一切関われないのである。 
今回の裁判も、控訴される公算が大きいとされる。 
そうしたら、今回の裁判員や裁判所、ひいては司法全体の、 
裁判員裁判制度実現に注いだ全てのことは、ご破算になるに等しい。 

勿論、控訴審で第一審の判決が無視される訳ではないが、 
従来から積み上げてきた判例に基づく刑に、 
より近い量刑がなされるだろうことは想像に難くない。 
こうなると、もはや「労ばかりで功なし」なのかもしれない。 

そうであるなら、一般市民が参加した第一審の判決なんて、 
刑事裁判という流れの中のちっちゃな一要素に過ぎない。 
まさに「裁判 in 裁判」なのである。 

刑法が出来た時に比べて、人間は長生きになった。 
罪を犯した者の人生の時間を奪う「罰」の規定を変えないままならば、 
「罰」の重みはどんどん軽くなるばかりだ。 

人生50年の時代では、懲役10年=人生の20%を刑務所で過ごす。 
人生80年の時代では、懲役10年=人生の12.5%を刑務所で過ごす。 
人生100年の時代では、懲役10年=人生の10%を刑務所で過ごす。 

単純に見れば、人の寿命が延びれば延びるほど、 
刑の重さはみるみる目減りしていく。 
罪と罰のアンバランスは、これからもどんどん進む。 
最初に刑罰の規定を作った時の、 
「この罪にはこれくらいの刑の重さが妥当だろう」とした基準から、 
どんどん乖離していくのである。 

勿論、刑の加重については、 
個別の罪に関して、ちょっとずつちょっとずつ法改正が行われてきた。 

しかし、時効の問題も含めて、 
ここらで全ての罰について総ざらいすべき時が来たのではないか 
(いや、とっくに来ていたのだとも思うが)。 
全ての罪と罰についての規則を点検して、 
きちんとバランスが取れたものに改正すべきなのではないか。 
そして、その時にこそ、 
本当の「市民感覚」を採り入れたらいいではないか。 
そこに時間と金と人材を投入すれば、 
これから先のかなりの年月において使用可能な、 
理想的な刑法が出来上がるのではないだろうか。 
そうすれば「労ばかりで功なし」な裁判員裁判など行わずに、 
市民感覚との乖離が少ない、迅速な裁判が出来るのではないか。 

兎に角、今回のような裁判員裁判では、 
第一審で決着するような争いの少ない裁判が、 
みな控訴審に行ってしまうのではないか。 
結果として、また人材と時間と税金の無駄が行われる。 

こうしてみると、裁判員裁判とは、 
国が「司法は国民のものだ」と言い訳するために、 
こしらえた制度に過ぎないのではないだろうか。 
刑法全体の見直しという、 
時間がかかって厄介だが絶対に必要なことをせずに横着をして、 
みてくればっかり整えることに心血を注ぐヤツらが、 
いかにも考えそうなことだ。 
きっと、国民の関心が薄れた頃に、 
そーっと消えて無くなる制度に違いない。 

今回の被告人は、不公平感が拭えないのではないか。 
何しろ、裁判員裁判によって、従来より重い罰を科されたのである。 
この制度が「正しいものだった」と国民に示すために、 
彼の人生が、従来の同罪の犯人たちより多めに奪われるのである。 
裁判員裁判という制度が、まずは円滑にスタートするための、 
彼は生け贄だったのかもしれない。 

*今回の裁判の被告人は、殺人という大罪を犯しているのだから、 
 私個人の感覚としては懲役15年でも重いとは思わない。 
 ただ、従来より重い刑を科すために、 
 「法の全体的な見直し・点検」という自らの当然の義務を怠り、 
 さらには「市民感覚」を都合良く利用しようという国の姿勢に対し、 
 問題があると感じているのである。
 
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